| 1 恐れていた告知 |
| 「やはり甲状腺のがんですね。甲状腺の右側に四センチを越える大きな腫瘍が複数あると同時に、首のリンパ節への転移も認められます。いわゆる初期ではなく、かなり進行した状態です。さらに、慢性の甲状腺機能低下症も併発しています」 1994年の8月、私は国立京都病院耳鼻咽喉科の永原國彦医師から、がんであることを告げられた。 ついに恐れていた時がきたのだ。頭からすっぽりと暗幕をかぶせられ、一瞬にして視界を絶たれたような感じがした。にもかかわらず、「腫瘍、転移、進行」という言葉だけははっきりと耳に残り頭の中で何度もこだました。 私は冷静さを保とうとして、時々あいづちを打ちながらドクターの話に聞き入った。そうでもしなければ涙があふれてしまいそうだったからだ。明るく雑然とした雰囲気が感情にブレーキをかけてくれたお陰で何とか耐えることができた。 永原先生は私が必死になって動揺を隠していることに気づいているのだろうが、きわめて淡々と説明を続けた。「残念ながら、かなり進行したがんです。進行度でいうと『T3N1M0』に分類されます」「それはどういう意味ですか?」「先ほどお話したように四センチ以上の甲状腺のがんと近くのリンパ節への転移があり、ほかの臓器には転移していないことを指します。」「相当わるいということでしょうか?」「甲状腺のがんは他の臓器のがんとは異なる性質をもっていて、がんの組織型と患者さんの年齢によってかなりの予後を推測することができます。あなたの場合、皮膜や血管への侵襲を伴う侵潤性の強いがんであるものの組織の悪性度はそう高くありません。さらに年齢では、四十五歳が大きな分岐点になります。四十五歳までに出てくる甲状腺がんのほとんどは進行が遅くて治りやすいのに対して、四十五歳を過ぎてからのがんは、たちが悪いからです。たとえば進行度でいいますと、四十五歳未満ならたとえ他の臓器に転移していても病気はステージU止まりなのに、四十五歳以上になると同じ状態でもステージWに分類されてしまいます。ですから・・・・・・」「先生、私は今年ちょうど四十五歳を迎えたところなんです」難しい言葉はすっと耳を素通りしたが、年齢の話になると、反射的にドクターの言葉をさえぎってしまった。「ボーダーラインですね。吉川さんのがんはステージTともステージVともとれます。ただ、腫瘍は数年前からあったということや甲状腺がんの中では最も多い乳頭がんといって比較的大人しい性質をもつ分化がんの一つであることなどから、より前者に近いものといえるでしょう。この病気は症状が出にくいので、がんがかなり大きくなってから当院に来られた方はたくさんいます。しかし、これまでの私どものデータからいうと、ステージT、Uの患者さんの98.4%は手術により治っていますよ。」これを聞いて目の前がすっと晴れていくのを感じた。そして、その言葉にすがりつくような思いで永原先生に尋ねた。「私のがんは治るんですか?」「手術をしてみないと何とも言えない部分はありますが、たぶん治りますね」「このまま放置したらどうなるのでしょう?」「がんの侵潤性が強いので、声を出す反回神経という神経や気管や食道など日常生活に必須の臓器にがんの浸潤をきたすかもしれません」「もし、そうなったら?」「いずれは機能を損ねて、声が出ない、腕が動かない、などの症状が出るでしょう」「でも、私はプロゴルファーですからシーズンの途中で手術はできません。オフまで待っていただけますか?」「吉川さん、腫瘍の性質からしても手術は少しでも早いに越したことはありませんよ」「来月は公式戦の日本女子プロ選手権があるんです」「わかりました、それが終るまで待ちましょう。ゴルフと治療とをどう両立させるかは、あなた自身がよく考えておくことですよ」「選手権が日曜日に終ったら京都に戻りますので、火曜日の午前中には入院します」手術は一ヵ月後に決まった。 ついさっき、がんなのかどうか不安ではちきれそうな胸をかかえて診察室に入ったばかりなのに、手術のスケジュールを決めてその部屋を出ることになるとは考えてもいなかった。告知のショック、明るい見通し、手術の必要性。人生のアンラッキーとラッキーとの間を数十分の間に行き来して、私は何とも言えない複雑な気持でドアを閉めた。 診察室を出た私は、いったんロビーの長椅子に腰かけた。どっと涙が出るかと思ったがそうでもない。感情はロックされ、頭を働かせることもできなくなっていた。頭の中が真っ白というのは、こういうのを言うのだろう。「やっぱりがんだったんだ」「これからどうしたらいいんだろう」「もっと早く永原先生に出会えたら」。これ以上のことは何も考えられなかった。 しばらく時間をつぶしてから立ちあがったのだが、駐車場までの足どりはふわふわ浮いてしまい、自分の足で歩いている実感がもてなかった。見慣れた町並みを運転して帰るうちにやっと自分を取り戻していった。 はじめてこの道を通ったのはほんの一週間前のことだった。 この年のシーズンも春先から毎週試合に出てそれなりの成績を挙げていたが、体力的には金曜日から日曜日までのトーナメントを戦うだけで精一杯になっていた。自分からすすんで練習をしたり、新しい課題に取り組む気はまったく起こらなかった。梅雨が明けて急に猛暑がやってきたから体がついていかないのかな、とも思った。いや、そう思いたかった。 だが、疲労とだるさの中で体をだましだましゴルフをしてきたのももう限界だった。どうしようもない倦怠感は試合中にも出てきて、次のホールへのインターバルや歩測をして歩く私に覆いかぶさってきた。ボールをティーアップするのがとてつもなく面倒になり、途中でプレーを投げ出したくなることもあった。 私はもともと自分の体に起きる変化や痛みには敏感だった。生活の中やゴルフスイングやラウンド中に感じるちょっとした違和感を見逃すことはなかった。それはゴルフを理論に沿って作り上げたのではなく、全身の感覚で覚えてきたからだ。 たとえば、スイングのトップでは体のどこの部分の筋肉が緊張しているといい球が出るか、どこに力が入るとミスショットになるか。そういうアンテナを体中に張りめぐらせ、日頃の練習で無数のデータを蓄積していく。もしもアンテナに引っかかればスイングの改善点やヒントがあると考え、そこを何度も試してスイングを調整する。二十一歳でゴルフを本格的に始めてから現在まで、その繰り返しで自分の体の感覚を磨いていったのだ。 もちろん首の腫れや体のだるさなどはずっと前から自覚していた。構えたとき首のあたりに感じる違和感やスイングの切れのなさに気づいていたのだ。 ところがその半面、プロスポーツ選手としてのプライドと性格的な要素もあり、体調の悪さやそれを我慢する姿を第三者に知られることは好まなかった。できるだけ自分でケアし自分で解決してきたという自負もある。 さらに幼稚な発想と笑われるかもしれないのだが、単純に病院へ行くのが怖かったというのが症状をここまで悪化させてしまった大きな原因といえる。 「もしがんだったらどうしよう。大きな病気だったらどうしよう。でもゴルフができるのだから、きっと、そんなに心配することはない。試合が休みの週になったら、いやオフになっても体調が悪かったら病院へ行こう」 検査を延ばし延ばしにして現実から逃げていたのだ。 そうこうしているうちに私の体調は抜き差しならない状態になっていた。ある日、ぼわーんと腫れぼったい首筋に右手を当ててみると、表面がでこぼこしたしこりのようなものに触れた。しこりと腫れの部分は片方のてのひらには収まらないほど大きくなり、驚いて鏡に向かうとあごのラインがはっきりしなくなって、顔から首がつながっている感じに見えた。相変わらず体はやせているのに、首から上は別人のようにむくんでいる。「これは私の顔じゃない!!このままでは大変なことになってしまう!」 鏡の前でかって感じたことのない焦りと不安にかき立てられた。 それをきっかけに、思い切って自宅のある京都の個人病院で診察を受けることにした。やはり診察室に入る前は緊張したが、この病院の医師とは古くから懇意にしていることもあり、自分の体の状態を率直に話すことができた。 首に腫瘍があることは間違いない。それは悪性のものなのか、違うものなのか。そこが問題ということは私にもわかった。腫瘍マーカーなどいくつかの検査をすると甲状腺がんの疑いが浮上し、国立京都病院の耳鼻咽喉科へ行くようすすめられたのだった。 永原先生の初診を受けたとき、先生は首を触り、喉の奥の方を診察した後にさらりと言った。「甲状腺がんの可能性が高いですね」「手で触るだけでわかるんですか?」「大抵の見当はつきます。すぐに超音波エコーをとり、細胞を調べましょう。一週間で確定診断が出ると思います」さすが甲状腺の専門医だ。豊富な経験と実績があるからこそ的確で早い判断を下せるのだろう。 だが一方で、本当に初診で見当がつくのだろうかと半信半疑の気持もあった。検査結果が出るまではわからない。もしかしたら、がんというのは間違いかもしれない。というより、そうあってほしい。 自分で言うのはおこがましいが、正直にいえばその時はまだ、「私はゴルフの世界である程度の成功を収め、社会的にも名を知られた選手だから、『念のため』とか『大事に至らないように』検査をしてくれるのかもしれない」 という期待と勘違いをしている部分があった。 それらはたった一週間で打ち砕かれ、がんとの闘いが始まったのである。(つづく) *今回はここまでです。初回ですので、巻頭から抜粋いたしました。 次回、何章からかは未定ですが、掲載いたします。さわりだけでもお楽しみください。 (一気に読みたい方は、ぜひご購入ください。) |
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