4 手術を乗り越えて
 私は予定どおり九四年九月十三日に入院し、手術の最終確認とカウンセリングにのぞんだ。病院スタッフ以外の同席者は、母、弟、それに私。手術の手順を説明するのは、執刀してくれる永原先生だ。
 「明日の手術では、甲状腺をすべて摘出すると同時に首のリンパ節を郭清します。鎖骨の数センチ上とあごのすぐ下をそれぞれ横向きに七〜八センチ切開する予定です。手術は八時間前後と考えています」ドクターはご自分の著書を私たちの前に広げ、説明をはじめた。
 それには写真やイラストが何点かついていて、手術のようすが生々しくつづられていた。リアルなイラストには、感情も感覚もないように見える坊主頭の人が目を閉じて横たわっていた。不謹慎かもしれないが、その姿はしかばねのようでいつか自分もこんな姿になってしまうのではないかと気持が悪くなった。母や弟にそういう心の中をのぞかれないよう、私は二人の顔を見ずにドクターの説明を冷静に聞こうとつとめた。
「かなり深部での操作をしますので、この図のように、頭をやや後ろに倒して首の前面を伸ばした姿勢をとり、口から気道へ管を入れて吸入麻酔薬を送ります。吉川さんの場合、気道の一部が曲がっていて管が入りにくいようですが、熟練した麻酔医が行うので心配はいりませんよ」
 首を切ることはわかっていても、改めてその方法を知ると手術が本当に怖くなった。私はおそるおそる訊ねた。「切るところは二カ所ですね」
「二カ所を切るのは、きずを目立たなくするためです。一カ所は、がんのある甲状腺を切除するために鎖骨のすぐ上を切開します。もう一カ所は、今後の転移を防ぐためにリンパ節郭清をする、つまり頚部のすべてのリンパ組織を摘出するために右側のあごの下を切開します。首のしわというのは横向きに走っていますから、跡はあまり目立ちませんよ」 「それにしても八時間もかかるとは・・・・・・」
 「がんの手術は一番はじめが大切です。今後の転移を防ぐためにできるだけ広い範囲の郭清を行います。顕微鏡も使って入念にしますので、これには比較的時間がかかります。もしリンパ節に転移していれば厄介なことになりますが、それは開いてみなければわかりません」
「開いてみないとわからないのですか?」
 「がん細胞が咽頭、気管、食道、声を出す反回神経などへ広がっていないか、血管へ入り込んでいないか。これらは手術時にわかることがあります。たとえば、がんがリンパ節に転移して気管にもへばりついていたら、のどに穴をあけることになります。ただ、今のところ他の臓器へは浸潤していないと思われます」
「手術の後遺症というのはあるんですか」
「甲状腺がんは治りやすいのですが、一般にリンパ節の郭清をするためには大事な神経だけを残し、通常は残りのすべての神経や血管や筋肉を切断しなければなりません。ですから運動能力に影響が出るのはやむを得ません。ひきつったり、腕がうごかしにくくなっ・・・・・・」
 「先生、それだけは困ります。たとえ喋れなくなっても私は何とか我慢できると思いますが、右手の自由を取り上げられたらどうにもならない。何があってもゴルフができるようにして下さい!!」
「その点、あなたの場合は現役・・・・・・」
 今までなんとか冷静に話を聞いていた私は、このときばかりはショックを隠せなかった。きっと、青白くて切羽つまった顔をしていただろう。
「・・・・・・のスポーツ選手ですから、できるだけ運動能力を温存するための『保存的頚部郭清術』をします。胸鎖乳突筋という首にある一番太い筋肉を少しも切らず、その裏側のリンパ節を郭清するのです。筋肉は一時的に硬くなるかも知れませんが、支配神経や栄養血管を残しますのでほとんど影響は出ないはずです。ただし脅かすわけではありませんが、がんが食い込んでいて声をだす反回神経を犠牲にするケースがないとは言えません」
「それさえなければゴルフはできるのですか?」
「すぐにトレーニングを始められますよ」
「治るということですか?」
「吉川さんのタイプの乳頭がんは、遠隔転移がなければ、私の治療成績では98.4%が治っています。ただ、甲状腺をとり除いてしまうので、術後は甲状腺機能を維持するホルモン剤を飲むことになります。この薬は、甲状腺機能の数値をはかって量を調整しながら一生飲まなければなりません」
ドクターは終始わかりやすく説明してくださった。あとで知ったところによると、永原先生の治療方針の一つは、「すべてを患者に話す」ことだそうだ。本人へのがん告知はもちろん、初めの段階からすべての病状を患者に知らせ、よく理解してもらったうえで患者の希望もとり入れてベストな治療を実践していく。私はものごとを隠されるのが好きではないから、この率直さは信頼できると思った。
 カウンセリングが終って病室に戻るとき、何人もの入院患者とすれ違った。今まで耳鼻咽喉科というと中耳炎とか扁桃腺炎とか、どちらかというと軽い病気で一時的にかかる人が多いのかと思っていたが、私と同じ甲状腺がんや咽頭がんなどの重い病気の治療をするために入院している患者さんもたくさんいた。これは意外なことだった。年齢層もさまざまで、お年寄りばかりとは限らず、働き盛りの人も私より若い患者さんもいた。
 しかし、この時は翌日の手術のことで頭がいっぱいになり、それ以上のことは考えられなかった。明日はどんなふうに手術室へ入っていくのか、術後はどうなってしまうのか、自分の目の前のことで精一杯だった。目の前にいる患者さんを観察すると言ったら失礼だが、少なくとも私より入院経験が長い人の術後の状態を見たり聞いたりして参考にする気にはならなかった。むしろ、
「明日から私もパジャマ姿でつらそうに歩くようになるのか」

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