| 6 離婚のストレス |
| がんの手術後しばらく、私はなぜ病気になったのかをよく振り返った。橋本病といいがんといい、甲状腺ばかり悪くする原因は何だったのだろうかと。 医学的な面では遺伝子や体質など生まれつきの要素が主なようだが、甲状腺がんは何年もかけてゆっくり進行するということだから、目に見えて体調を崩した八九〜九〇年のまえ五年間くらいの生活のなかにも原因があったのではないだろうか。 思い当たる節はいくつかある。八〇年代の後半には、私はゴルフとプライベートでの修羅場をくぐり抜けた。 そのひとつは離婚だ。離婚には結婚するときの数倍のエネルギーがいるというけれど、それは本当のことだった。 私の場合、少なくとも二〜三年はこの問題が常に頭の片隅にあり、ゴルフに集中しきれない時期があった。このままではすべてがダメになってしまう。そういう焦りのなかで過ごすことはかなりのプレッシャーになったし、自分で結論を出してから離婚が成立するまでは、それこそストレス漬けの毎日だった。専門的なことはわからないけれど、自分の感覚としては、このときの精神的なストレスがホルモンの分泌を調整する甲状腺にかなりの影響をあたえたと思っている。 八五年十月、名古屋でおこなわれる東海クラッシックへ出発する前の晩のことだった。 そのころ私は結婚していて家庭とツアーをかろうじて両立させていたのだが、その日は試合の荷造りをしている最中にほんのささいなことから夫婦げんかをしてしまった。 「馬鹿やろう!!もう、ええ加減にせえ!!」 怒鳴り声とほぼ同時に、私の顔にまわし蹴りがとんできた。私はとっさに手で顔をかばおうとしたのだが、手と顔もろとも蹴りとばされて床に叩きつけられてしまった。しばらくの間まぶたの裏側はちかちかし、左頬と左腕がしびれてきた。人から暴力をふるわれたのは初めてなうえ、相手が夫ということで私はショックのあまり立ち上がることさえできなかった。 私たち夫婦は結婚十四年目に入り、急速に破綻へと向かいはじめていた。 原因は性格の不一致だった。何年もまえからお互い性格的にかみ合わないのに気づいていたけれど、そのことには触れずに、ある意味では仮面夫婦を演じていたのだ。しかし、この頃は口げんかが絶えなくなり、言葉はきつくなる一方。このままではまずいと思っていた。ただ、「夫の借金」や「妻の浮気」のようにはっきりした原因ではなく、時間をかけて表面化してきた問題にほかの要素もからみ合っていたので、解決の糸口はつかめそうになかった。 夫の吉川は、空手三段の免状をもっていた。おとなしい半面すぐにカーッとなるところのある人で、口げんかがエスカレートすると空手の構えをとるようになった。私はそれが怖くてたまらなかったから、できるだけ罵り合いにならないよう用心していたのだが、まさか女性である私に本当に手を上げるわけはないと油断していたのだろう。 我にかえった私は吉川と目も合わさずに立ち上がり、試合のためにまとめたバッグを車のトランクに詰めて夜中の十二時すぎに家を飛び出した。 そして、東海クラッシックが行われる名古屋へ向けて車を走らせた。こうなったいきさつ、今までのけんか、最近の生活など、いろいろなことが頭に浮かんで涙が止まらなくなった。こらえていたものが一気に爆破してしまったのだ。名古屋に着くころには涙も乾き、やっと私の気持は離婚に向けてすすみ始めた。 「私たちは、もうおしまいだな。とりあえず新しい部屋を借りよう」 この日のできごとが離婚の引き金になった。 もちろん、こんなに短い時間で離婚を決意したわけではない。日ごろの夫婦の状態に悩んだり揺れ動いたりしながら、一方では予感めいたものにしたがい少しずつ気持が固まっていったような気がする。こういう状態になるきっかけは、私がゴルフの世界で活躍しはじめたことが大きかった、と自分では思っている。 私たちのつながりは、ゴルフを抜きには語れないところがある。 知り合ったのが勤めていたゴルフ場だったし、私にゴルフをすすめプロになるよう背中を押してくれたのも吉川だったからだ。しばらくして吉川はゴルフショップをオープンさせ、プロゴルファーである私の存在がショップの経営に役立つこともあった。公私ともに協力体制をとってうまくいっていた。 当時は主婦兼プロゴルファーの存在はたいへん珍しく、家庭とゴルフをどうやって両立させるか自分なりに悩み、何度も吉川に相談した。 「初めはテストに受かるだけで十分だと思ってたけど、月例でいい成績を出すと試合に行けるでしょう。樋口久子さんとか鳥山由紀子さんたちと同じ試合に出られるなんて感激。私も予選を通れるような選手になりたいなと思って・・・・・・」 「家のことは心配せんでいいよ。それより、プロとしてゴルフができる時期はそう長くはないから、できるだけ頑張りや」 ゴルフに理解のある吉川は、いつも快く私を送り出してくれた。三ヶ月の米ツアー挑戦を三年つづけたときも、家族会議で同じことを言って義父母を納得させてくれた。そのかわり私も、家族の協力で試合に出させてもらっているのを忘れたことはなかった。皆の気持を無駄にしないよう、遠征中はゴルフのために時間を有効に使うことを心がけていた。自宅に帰ってきた時は、皆が起きる前にトレーニングと練習を済ませて朝食のしたくにとりかかったり、夜は本を見ながら彼が喜ぶような料理をいっぱいつくったりした。 おなじ年代の女性ならわかっていただけると思うのだが、私には古風な面があって、結婚したら妻は家にいて、夫のために身の回りのことをしてあげなければいけないと考えていた。妻としてそれができないのは本当に申し訳ない、せめて家にいるときだけは、と。 これは思いやりのキャッチボールだった。吉川が投げてくれた思いやりを私が受け取り、ゴルフの活躍という形で投げ返す。私の投げ返すものは次第に大きくなり、彼は受け取るのに疲れてしまったのだろう。 私はごくささいな動作からそれを感じ取った。考えすぎだと笑われるかもしれないが、吉川は車の運転中に急ブレーキを踏むと、助手席に座っている私の体にかならず手を添えてくれた。ほんの一瞬のことではあっても、私は女性として大事に扱ってもらえることに小さなよろこびを感じていた。 ある試合の帰り、いつものように京都駅まで迎えに来てもらったときのこと。家に帰ると二世帯住宅とはいえ義父母がいる。そのときは帰ってからおつまみや食事をつくるのが面倒な気持もあったし、二人きりでゆっくり話をしながら食事をしたいと思い、 「途中でどこかのレストランに寄って行かない?」と提案した。だが彼は、「俺はいいよ」と言って、私におかまいなく自宅へ向かって車を走らせた。 ところが、この道すがらブレーキをキュッと強めに踏んだのに、吉川は黙って前を見つめたまま私の体に手を添えてはくれなかったのだ。 「あっ、この人はいままでと何か違うことを考えている」 この瞬間、はじめて私たちのあいだに小さなすき間が生まれていることに気がついた。気になって一〜二ヵ月は運転中の動作を観察したが、二度と手を添えてくれることはなかった。 また別のある日、やはり試合の帰りに京都駅へ迎えに来てもらうつもりで電話を入れたときのことだ。「いま東京駅なの。これから新幹線に乗ります」「・・・・・・そう」「賞品もたくさんいただいて、すごい荷物」「・・・・・・」「○時○分に京都に着くから、悪いけど迎えに来てもらえる?」「チッ、偉そうに!!なんで俺が迎えに行かなあかんのや!!」 電話は一方的に切れた。それ以来、吉川が駅まで迎えに来てくれることはなくなり、私は彼の変化をいやでも悟らされた。 成績が上がるにつれ、私の名前と顔は多くの人に知られていった。彼も「吉川なよ子のプロ生活を支える夫」ということで新聞や雑誌に載るようになった。 しかし吉川には、マスコミの取材を受けるのをはじめ、私と一緒にいるところを誰かに気づかれたりするのは精神的な負担でしかなかったという。レストランで周りの人に見られながら食事をするよりは平凡な団らんの方が好きで、家に帰ってゆっくりと私の手作りのおつまみやおかずを食べながら、一杯飲む。それがあの人のよろこびだったようだ。それを読みとってあげられなかったことに対しては妻として反省している。 朝食のしたくを一生懸命しているころの私だったら、「いただきものだけどいいお肉を冷凍してあるの。今日はステーキでも焼こうか」「今日は買い物をしていないから、和食でも食べて帰りましょう。小部屋ばかりのいいお店があるって聞いたのよ」 など、吉川の好みに沿うものを先回りして考えただろう。それにもっと単刀直入に、「二人きりでゆっくり食事をしたいな。いいお店ないかしら?」と言えたかもしれない。 あの時なら小さな行き違いを修正することはできたはずなのに、それができなかったのは、吉川が私に不満をもっていることを認めたくなかったせいかもしれない。もともと私はちょっと意地っ張りだし、おごりの気持もあったのだろう。自分はやるべきことをして地位も収入も得ているのだから、皆も満足しているはずだと思いこんでいたところがあった。 ゴルフの調子が悪いと、知らないうちにそれが態度に出る。ついつい自分だけが愚痴をこぼして、相手の愚痴は聞けなくなっていたと思う。私はこんな思いをしてゴルフをしているのに、という気持が生まれていた。その気持がゴルフと家庭を両立させるバランスを崩していく原因になったのではないだろうか。冷静に考えればもっと違うやり方もあったかもしれないけれど、「外ではプロゴルファー、家では妻」という切り替えは、当時の私にはできなかったのだ。 吉川も面と向かって私に不満を言おうととはしなかった。その理由ははっきりしないが、一つは私が強い女に見えたからではないだろうか。ゴルフをして賞金を得て、家庭でも堂々とゴルフの話をするようになったことで、彼は男として一歩下がってしまったのかもしれない。 それともう一つは、彼自身がいい夫を演じようとしていたからではないだろうか。ゴルフに理解を示し、妻の好きなようにやらせて文句は言わない。それが理想の夫のイメージだったような気がする。吉川はもともと私がそばにいる時間が好きで、一人ではどこにも行けないようなところのある人だった。なのに、彼も私のまえで背伸びをしてしまったのだろう。 ただ、こうしたことはだいぶ時間がたち冷静になってからわかったことで、当時は相手はもちろん自分の心さえもつかめなくなり、焦っていたように思う。 じつは私は、結婚九年目にも家を出たことがある。別居の原因は、子どもをもつかもたないかという問題から、性の不一致を招いたためだった。 そもそも二人は、私が二十一歳、吉川は二十八歳のときに職場結婚をした。彼はデートで町へ食事をしに行っても、夜九時ごろまでにきちんと寮の前まで送り届けてくれるような誠実な人だった。 北海道の実家へ戻り、母にプロポーズされたことを報告したとき、「まだ若くて何もできないんだから、あと一年待ってからにしなさい」 と反対されたのを振りきって結婚準備を進めていったのだから、ささやかな恋愛をしていたことは事実だ。 私たちはアパートを見つけ、挙式のあとから生活できるように、少しばかりの家具や両親から贈ってもらった布団などをあらかじめ運び込んだ。 そのとき、二人ははじめて結ばれた。結婚を控えた恋愛中のカップルそうなったのは、ごく自然のなりゆきだったと思う。私はどうしていいかわからず、ただ固く目を閉じてそのときが過ぎるのを待った。無知でオクテで、シーツが赤く染まってしまったわけも知らなかった私・・・・・・。 挙式が済み、新婚旅行は金沢の兼六園へ行った。園内を仲むつまじく散策しているとき、急に吐き気を感じて体調が悪くなった。新居へ戻ってもよくならないので翌日病院へ行くと、 「おめでとうございます。妊娠二ヵ月に入っていますよ」と告げられた。私はあのとき妊娠したのだ。「先生、私はずっと気分が悪くて、何も食べられないんです」 「つわりですね。じきによくなるものですが、まったく何も食べられないのなら、ここでゆっくり過ごしてください。神経質になることはありませんよ」 私は入院し、ビタミン剤などの点滴を受けた。しかし、吐き気は一向におさまらない。コップ一杯の水も口にできないまま二週間がたち、ついに十五日目の朝、医師は言った。 「もう限界です。明日おかゆも何も食べられなかったら、残念ですが赤ちゃんはあきらめてください。ご主人には私からご説明しますよ」翌日、医師から話をきいた吉川と義母は病室へ来て、義母が私にこう言った。 「なよ子さん、先生もそうおっしゃってるから今回はあきらめなさい」 二十四時間つづく吐き気で、起きあがることもできなくなっていた。私は黙ってうなずいた。 なぜ、あの時もう少し頑張れなかったのだろう。あと一日と言われたとき息を止めてでもおかゆを飲み込んでいたらと、私は今でもこのことを後悔している。 というより、時間がたつほど悔いるようになった。四十五歳でがんになったとき、「あのとき私が頑張れなかったことに対して、バチが当たったのかもしれない・・・・・・」 と本気で考えた。もしそうなら、どんな罰でも受け止めるつもりだった。 私たちの間では子どもの話題はでなくなっていった。でも、私は三十歳を過ぎてからは出産のタイムリミットを意識していた。現在では四十歳を過ぎてからの初産も増えていると聞くが、当時は一般に三十五歳までが限界といわれていたからだ。 優勝インタビューなどでそのことを聞かれると、「そろそろ子どもがほしいね、と主人と話しているところです」 「ゴルフの調子がよすぎるから、子づくりは来年か再来年にしなきゃ」 などと、私はその記事を吉川が読むことを期待して、いつも正直に答えていた。 しかし、吉川の態度は煮えきらない。私はしびれを切らして言った。 「私、そろそろ赤ちゃんがほしいなと思っているの」「俺はいいよ。まだいらないなぁ」この言葉を聞いたとき、ささやかな恋愛はすでに終わったと感じた。 実際のところ、私たちはかなり前からちぐはぐだった。上手な言い方が浮かばないのでストレートに言うと、夫婦関係はほとんどなくなっていた。どれで子どもができるわけはない。 その原因は、私がほとんど家にいないこと。たまに帰ってきても、へとへとになって眠ってしまったり疲れた表情をしている私を見て、吉川は気をつかってくれたのかもしれない。 そんなことで悩んでいるとき、思い切って親友の鈴木美重子プロに相談してみた。「私ね、もう少ししたら子どもがほしいと思っているんだけど、一年に一〜二回でもできると思う?」「月に、じゃないの?なよちゃん、それおかしいわよ。男の人ってすごいんだから」「どうしたらいいのかなぁ」「なよちゃん、甘えないからよ。自分からもっと甘えてみたら?」 「私そんなことできないし、言えない性格なの」「大丈夫。自分から飛びこむのよ」たしかに私は甘えるのがとても下手ではあった。吉川を信頼していたけれど、甘えたり、か弱い面を表にだしたり、自分を表現したりすることはまずなかった。そういうものが積もりつもって言いたいことも言い合わず、ついには指一本触れない間がらになってしまったのだろう。なんとかしないとこのままでは駄目になると、焦りばかりが募った。 ある朝、五時ごろ目がさめた。この日の練習日から試合に入るため、七時には出かけなければならない。私はしばらく自分のベッドに腰かけ、親友の言葉を思い出していた。時計を見ると、もう三十分近く経っている。 私は一大決心をして隣のベッドに滑り込んだ。身を横たえていたが反応がないので、胸元に額を寄せた。すると吉川は目をさまし、 「何するんや!!俺はもう少し寝る」 と、うわごとのように言って、くるりと背中を向けてしまった。私は拒否されたショックと恥ずかしい気持でどうしようもなくなり、予定より一時間以上も早く家を出た。 このことがあってからしばらくして、私たちは別居した。というより、夫婦でいることのマイナス面ばかり考えて、「私たちは何のために結婚したのかわからない。これ以上一緒にいる意味はない」と、私が一方的に出てしまったのだ。 これが結婚九年目のことだった。 半年ほどして吉川が私の部屋へ来た。私はとりあえず今までどおりトーナメント活動を続ける、子どものことは様子をみて考える、夫婦関係は修復するよう努力する――何となくそんなことを少し話したような気がする。私は彼が迎えに来てくれたことだけでもいいかな、という気になり、義父母に手をついてあやまり家へ戻った。 あとで考えると、このとき吹きだした疑問に対して、何日をかけても夫婦でじっくり話し合うべきだった。少なくともここで私なりの結論を出すべきだった。その結果、折り合いがつかずに離婚になったとしても仕方がなかった気がする 。 最終的には、この六年後にふたたび家を飛びだし離婚を決意したのだから。 しかし、話はこれで終わらなかった。 2回目に家を出たあと、私の意思を吉川に伝えてから離婚が成立するまでになんと一年もの時間がかかった。お互いのいいぶんを弁護士に伝えあい、離婚の条件を整えることの方が、私にとってはストレスは大きかったように思う。吉川の言い分をまとめると、「彼女がここまでゴルフにのめりこむとは思わなかった。できれば試合にひと区切りをつけて家にいてほしかったしい、自分を表に引っぱり出すのはやめてほしかった。それに本当は子どもがほしかった。これまでの慰謝料とゴルフショップを移転したときの借入金を彼女が払うと言うなら、離婚に応じる」というものだった。私は言葉を失った。 ここに至るまでも夫婦仲がうまくいっていないことはストレスになったけれど、できるだけ試合には持ちこまないようにしようと、精神面の切り替えを心がけてプレーしていた。しかし、これを聞いてからというもの、ゴルフに集中できなくなってしまった。 夜はマネージャーから報告の電話が入り、吉川のかくされた本心をはじめて聞かされる。その一つひとつに怒りや悲しみやショックを感じて心が波うち、毎晩のように泣いた。朝になると、いつもまぶたがはれていて、視界がすっきりしない。重いこころのままコースへ向かうような日がつづいた。 この調子だから、プレー中にもふと断片的に、「『ゴルフをできるだけやってみたら』と言ったのは誰?」「どうして私が慰謝料を払わなきゃいけないの?!」と、吉川の主張を思い出して腹が立つこともあった。心理戦といわれるゴルフをしている最中にこんなふうに集中力が途切れてしまったらおしまい。夫婦仲が悪くなってから離婚の話し合いにだいたいの結論が出るまで成績は落とさなかったが、八五〜八六年はそれぞれ1勝ずつしか挙げられなかった。 八六年九月、正式に離婚が成立した。 私は小さなマンションを二つと、1000万円の慰謝料を月々分割で払いつづけた。そのほかにショップの借金も引き継いだ。すべてを彼に渡してもいいから、早くすっきりしたいと思ったからだ。義父からも「精神的苦痛を与えられた」として慰謝料を請求された。 それにもかかわらず、私はゴルフに出会い、プロとしてここまでやれたのは吉川のお陰だという気持を否定することはできなかった。だからこそ十四年も連れ添ってこれたような気がする。ささやかな恋愛の記念と感謝の気持を忘れないためにも、私は今後とも吉川姓を名乗ることにしようと決めた。 改めて私たちの離婚を振り返ると、性格の不一致に気づいていたのにお互いが歩み寄りをしなかったことが決定的になった。その状況を作ったのは皮肉にもゴルフだった。ゴルフで結果を出すことによって私はどこかで慢心し、吉川は背伸びをした。二人がまったくバラバラの受け止め方をしてからは思いやりのキャッチボールは続かなくなってしまった。何もかも思い通りにいくと思ったら大間違いだということに気がついて、なおかつお互いが自分に素直になれる性格だったら違う展開があったかもしれない。 ひとつ確かなのは、離婚からは得るものは何もないということだ。膨大なエネルギーを注ぎ込んだわりに物事はマイナスの方向にしか進まず、いい話はちっとも出てこない。私の場合あとに残ったのは、果てしない消耗と借金だけだった。 それどころか、とてつもないストレスが何年もたまって甲状腺に悪い影響を与え、結果的にがんを引き起こす原因のひとつになってしまったと思っている。 |
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