7 賞金女王へのプレッシャー
 八八年七月、私はスタンレーレディス(埼玉県・廣済堂ゴルフ倶楽部)でシーズン4勝目を挙げ、賞金レースのトップに立った。
「去年は3勝して賞金ランキング3位だったから、ことし4勝すれば賞金女王になれる!!」
 ひそかにつかんでいた目標をクリアしたのだ。
 それにしても、こんなに早い時期に結果が出るとは予想外だった。賞金女王を目ざして三年目。「今年こそ」という思いは強く、オフのうちから最高の心技体を作り上げていた。それをキープできたことが前半戦の好調につながったのだろう。
 しかし、勝負ごとは下駄をはくまでわからない。毎年、秋のビッグトーナメントでいかに波にのるかが賞金レースのポイントになっているし、賞金女王は最終戦までもつれるケースが多いからだ。ここで油断してプレーの流れを変えないように注意しよう、と気持を締めなおした。
 このころは毎週、いや、毎日を全力で過ごしていた。私はもともと自分に厳しい面を持っているが、少しでも手を抜くと「吉川なよ子」は許してくれない。自分にはうそはつけないから、トレーニング、ショット練習、試合など、なにごとも気を緩めずに向かっていた。あの時期に費やしたエネルギーは計り知れないものがある。
 やっと離婚のストレスから解放されたときに賞金女王へ向かって突きすすんだことは、心身両面に大きなプレッシャーを与える結果になった。この流れが甲状腺がんの発病を早めた、と自分では考えている。
 実は、私が本当のプレッシャーを味わったのは、この直後に起きた悲しいできごとがきっかけになった。
 スタンレーレディスに勝った私は、その翌日、日本女子オープン(福岡県・大宰府ゴルフ倶楽部)に出場するために現地入りした。本戦にそなえて体を休めているとき、数ヶ月前から京都に来ていた母が電話をかけてきた。
 「もしもし、なよ子?大変よ!!紀子さんが、紀子さんが危篤なのよ!!」
「え?!すぐに支度して帰るわ」
「今週はいちばん大事な試合なんでしょう?要次郎が心配していたけど・・・・・・」
「なに言ってるの、ヨッチのほうが大変なときに。母さん、私が着くまで紀子さんをしっかり励ましてあげて!!」
 私は急きょ日本女子オープンの出場をとりやめ、荷物をまとめて大阪行きの飛行機に飛び乗った。

 紀子さんは弟・要次郎の妻、つまり私の義妹にあたる。三年前に一家四人で北海道から京都へ来て、私の夫が経営していたゴルフショップやその後にひらいた事務所の仕事を手伝ってもらっていた。
 たまたま弟が転職を考えているときいて、
「お店が道路の拡張計画にかかっているので、移転、拡大を考えているところなのよ。もし転職をするなら、思いきって京都へ来ない?」と誘ったのが、きっかけだった。

 ちょうどそのころ私の離婚問題が表面化してきた。そのためショップの経営だけでなく、離婚に至るまでのさまざまな用件や私のマネジメントを二人に任せる結果になり、言葉では言い尽くせない苦労をさせてしまった。知らない土地で新しい仕事を一つひとつ覚えていくのは、大変な苦労だったと思う。それでも弟たちはよく相談し、協力し、よけいな負担を私にかけないようなかたちで物事を処理してくれた。
 そればかりか、月々に払う慰謝料の負担は予想していたより大きく、そのしわ寄せがお給料にいってしまった。あまり言いたくないことだが、一方では大きな慰謝料を手にして平気な人がいて、もう一方ではそのために頑張る人がいる。私の苦しい胸のうちを察し、弟たちは文句ひとつ言わずに働いてくれた。
「二年後に慰謝料のことが解決すれば、心配なくなるんだけどね。それまではどんどん仕事を覚えていくよ。僕らはなんとかショップを守るから、姉さんは自分のことだけを考えて試合に専念して」
 と、損得ぬきにして体を動かしてくれたのだ。気恥ずかしくて言葉に出したことはないけれど、心のなかではいつもありがたく思っていた。もし弟たちに支えてもらえなかったら、離婚後の成績はなかったかもしれないと思う。
 紀子さんには、試合のエントリー、宿泊や交通の手配、スケジュール調整など、トーナメントに出場するための雑用を主に引きうけてもらった。慣れない京都で二人の子どもを育てるだけでもひと仕事だったと思うが、ゴルフという未知の世界のマネジメントをまかされて相当な負担だったに違いない。でも、紀子さんはいつも明るく、私によく尽くしてくれた。
 八八年に入ると離婚の後始末はほとんと終わり、ショップも軌道に乗ってきたので、私のプライベート事務所をひらくことにした。その記念にコンペの企画が出たのをきっかけに、紀子さんもゴルフをはじめた。
 紀子さんは、近くのゴルフ練習場へまめに通った。コンペ前日も、
「いよいよ明日コースへ出るのね?!楽しみだけど不安だわ。ちょっと練習場へ行って来ます」
 と、いつものように元気よく出かけたそうだ。
 ところが信じられないことに、その数十分後、練習場でボールを打っている最中にくも膜下出血で倒れてしまったのだ。
 すぐに救急車で病院へ運ばれ、手術を受けた。そのときに頭の骨を外したまま、四回も手術をして回復を待った。家族は奇跡が起こることを願っていたのだが、ついに一度も意識は戻らず、三ヵ月も昏睡状態がつづいた。
 あとで姪と甥に聞いたところによると、
「お母さんね、このあいだ『ちょっと頭がいたい』って言ってた」
 という。弟や私には心配をかけまいとして、少しくらい体調が悪くても日常生活をこなしていたようだ。その頭痛とくも膜下出血との因果関係はよくわからないが、無理がたたったことは確かだと思った。
 私はこんなことになって初めて、自分の気配りが足りなかったことを後悔した。紀子さんはあんなに頑張っていたのだから、疲れているのは当たり前。なぜ、
「たまにはゆっくり休んでいいのよ。具合が悪いときは無理をしないでね」
 と、声をかけてあげなかったのだろう。
 そのころの私は、やっと離婚のショックから立ち直り、トーナメントに集中しはじめたとき。とても周りの人たちの心配をする余裕はもてなかった。子どもの世話、家族の世話、それに仕事と、いろいろな人のために動かなければいけない紀子さんの立場を忘れていたのだ。
 あとで甲状腺がんになり、体が疲れたり調子が悪くなったりしたときのつらさを嫌というほど味わったとき、私はふと紀子さんのことを思った。
「頭が痛かったのに、疲れていたのに、我慢して仕事をしていたんだよね、紀子さんは・・・・・・。誰にも言わずに我慢するのって、つらいよね。わかってあげられなくてごめんね」
 紀子さんのつらさはどんなものだったか、それを本当に感じ取ることができたのは、やはり自分が病気をしてからだった。

 私が空港から京都の病院へ直行して間もなく、紀子さんは亡くなった。私より三つも若い三十六歳だった。
 しばらくは悲しむ気持になれなかった。悲しいのはもちろんだけど、それよりも、やりきれない思いの方が強かったような気がする。どうして死んでしまったの?なぜ紀子さんがこうなったの?現実を受け入れるまでにはもっと時間がほしかった。大切な人は失ってみて初めてわかるというが、紀子さんを失ってそれを思い知った。
 私は、弟や弟の子供たちの顔をまともに見ることができなかった。こうなった原因は、わたしがみんなを京都へ呼んだことにあると思ったからだ。
「紀子さん、謝ってすむことではないけれど、本当にごめんね。さぞ心残りでしょう。これからは私が子供たちを守るからね。何があっても必ず守り抜くよ。そのためにも今年は賞金女王をとらなきゃ。紀子さん、これからも力を貸してね」
 それまで紀子さんが尽くしてくれた気持に応えるために、また紀子さんを失った家族につぐなうために、私は賞金女王という目標を改めて自分に課した。
 しかし、二週間後に試合に戻ったものの、あれだけのショックを受けたあとに気持を切り替えるのは容易ではなかった。プレー中に家族連れのギャラリーを見かけると、
「お父さん、お母さんと一緒にハイキング気分で楽しそう。でも、弟の子どもたちは・・・・・・」
 と落ち込んだり、
「来週のホテルはどこだったかしら。プレーが終わったら電話をして、紀子さんに・・・・・・」
 というふうに、何かにつけて紀子さんを思い出してしまうことがあった。
 ゴルフどころではない、というのが正直な気持だった。
 いつの間にか賞金ランキングは大迫たつ子さんに軽く抜かれてしまった。差を広げられるのが怖くて休みもとれず、十一週間もつづけて試合に出ていた。焦りと疲れもプレーのリズムを狂わせていたと思う。
 三ヵ月ちかく過ぎたある日、私のスランプを一番心配していた弟が言った。
「姉さん、僕のことは心配しないでいいよ。ゴルフのことだけ考えてがんばってほしい」
「ヨッチ・・・・・・」
 その言葉で私はやっと救われた気がした。紀子さんも許してくれるかな、と思った。あのときは言葉に詰まってしまったけれど、ヨッチ、ありがとう。本当はそう言いたかった。
 私はさっそく流れを変えはじめた。三週間ほど続いていた右肩の痛みをとるために、別府の神丘温泉で硫黄治療をこころみた。十月の中旬に入って試合を休むことに多少の不安を感じつつ、なぜかあのときはパッと休んでしまった。スランプとはいえ、長い目で見ればゴルフが「乗っている」ときだったから、判断力もよかった。
 温泉ではゆっくり休養し、肩の治療はもちろん、心の治療をすることもできた。心身ともに落ち着きを取り戻し、ちょっと一息ついてリフレッシュをした。
 そのおかげで、翌週の五木&オリムピックススタッフレディースで優勝。トップとの賞金差は約300万円になった。ここへきての優勝ははずみがついた。あと300万円なら、なんとか逆転できるかもしれないという希望がわいた。
 あと一ヵ月がんばろう。そう思うとプレーのリズムもよくなった。
マツダジャパンクラッシック  34位
イトーキクラッシック       4位
大王製紙エリエール       3位
 そして、いよいよ最終戦のレディーボーデンカップ(千葉県・オークヒルズカントリークラブ)を迎えた。トップの大迫さんとは23万円差だった。大きいとも小さいともいえない差だが、たぶん、この試合で上位に立ったほうが賞金女王になるだろう。
 私は、追い上げているからといって気楽な立場ではなかった。ここ二週間はどうしたら賞金レースに勝てるのか、そればかりを考えてほとんど眠れなくなっていた。そういう時は、写経をしたり、ビデオを見たり、ウイスキーをダブルで飲んだりしたが、なかなか寝つけない。
 しかたがなく病院で処方してもらった睡眠薬を毎日半錠ずつ服用して少し眠った。それでも、夜中の一時頃うとうとしたかと思うと朝五時には目がさめてしまうのだが。プレッシャーと睡眠不足とで、五十五キロあった体重は四十八〜四十九キロになっていた。
 これで体を悪くしないわけはない。ただ、若い時はいくらでも無理がきくし、自分が病気をすることなど考えもつかないものだ。自分の「気持ち」はいつも大切にしていたけれど、「体」を大切にしなかったらどうなるかということも考えなかった。

 いよいよ最終戦が始まった。結論をいってしまうと、この試合は初日でほぼ勝負がついた。というより、私には初日のプレーをスタートする前に自分の勝ちを意識するものがあったのだ。
 私は宗教をもたないが、どういうわけか、以前からゴルフに悩んでいるときに「お告げ」のようなものが聞こえることがある。
 ベッドの中で目がさめる寸前に、自分がボールを打っている姿がすっと現れ、スイングの大事なヒントが聞こえるのだ。ボールを打っている自分と離れてそれを見ている自分がいて、姿は見えない誰かの声が聞こえてくる。とても不思議な空間なのだ。
 このことをプロ仲間に話したときは、
「それだけ強い思い入れがあることを夢に見るのは当然よ。声の主はあなたなのよ。『こうじゃないかな』『こうした方がいいかな』っていうことを寝言で言っているのよ。寝ている間も気を抜けないのだから、そりゃあ疲れるわ」
 と、あきれ顔をされてしまったけれど、自分ではどうしても普通の夢とは思えなくて、密かに『天の声』と呼んでいた。
 実は、初日の朝にも『天の声』は聞こえた。
「インパクトからフォロースルーにかけて、右手が寝ているよ」
「え、右手?じゃあ、こうして前に出すようにしてクラブのシャフトを立てていけばいいの?」
 そう問い返したところで『天の声』は消えた。
 私はベッドから飛び起き、大急ぎでコースへ向かった。一分でも早くボールを打ち、『天の声』を試してみたかったのだ。あのころ流行っていた長淵剛さんの「乾杯」という曲を口ずさんで行ったのにも運命的なものを感じる。
 朝食もそこそこに練習場へ行ってボールを打つと、ものすごく感触のいい打球が出た。2球、3球と打って私は開眼した。
「これよ、私が探していたのはこれなのよ!!今日はこのポイントに徹しよう」
 まだプレーもしていないうちから確信などと言ったらいけないかもしれないが、私は自分のゴルフに自信を持った。この二週間は特に私をがんじがらめにしていたプレッシャーが、この時ふっと消えたような気がする。
 初日の組み合わせは賞金ランキング順だったので、私と大迫さんは一緒にプレーをすることになった。ここまできたら、相手が見える方がやりやすい。これも余分なプレッシャーを取りのぞいてくれた。私は『天の声』を一打ごとに思い出し、73で回って2位につけた。意外なことに、大迫さんはなんと82を叩き38位だった。
「私さえくずれなければ、いける!!気を抜かずにベスト5を目指そう」
 状況をごく自然に、前向きにとらえることができた。決して楽な条件ではなかったけれど、厳しいとも思わなかった。『天の声』を大切にすればなんとかなりそうだ。
 ただ、すべてのプレッシャーがなくなったわけではない。夜になると、相変わらずウイスキーと睡眠薬のお世話になり、まぶたが少し下がってくるまで写経をつづけた。それでも結果を案じる思いを消し去ることはできなかったが。
 結局、私は目標通り5位タイ、大迫さんは23位でフィニッシュ。大迫さんを約80万円逆転して念願の賞金女王になった。
 その瞬間、私はついに大粒の涙をこぼしてしまった。いつも人前では絶対に泣かない、などと言って強がっていたけれど、そんなことはもうどうでもいいと思った。この一年、いや賞金女王を目指した三年、いやいやプロになってから今日まで十六年分の涙が流れ出したような感じだった。
 ここまで来るのに、いつもいつも「セカンドプレーヤー」と言われていた私。体は小さいし、恵まれた才能も環境もなにもない。その私が女子プロゴルフのトップに立てた理由は、逆境があったからのような気がする。何もないからこそ人一倍練習をし、何かを得ようとして全力を尽くした。それが大きな力になったのだろう。
 改めて最終ランキングが発表された。
 1位 吉川なよ子 6146万2665円(5勝)平均ストローク72.96
「紀子さん見ていてくれた?わたし賞金女王を獲ったよ!頑張ったよ!!」
 私は一枚のランキング表を紀子さんの墓前にそなえようと思い、大事にたたんでバッグにしまった。その時ふと、こう思った。
「あの『天の声』はのりこさんの声だったんじゃないかな?紀子さん、まだゴルフを始めたばかりだったけれど、腕をあげたのね」
 紀子さんを今まで以上に身近に感じた瞬間だった。

 以前、過激なスポーツをする選手は早く老化すると聞いたおぼえがある。単なる迷信かもしれないが、肉体を酷使し、精神を追いつめ、濃密な時間をすごす運動選手のもつ時計は、一般の人のそれよりも速く進むのかもしれない。  八五〜八六年は離婚のストレス、八六〜八八年は賞金女王のプレッシャー、義妹の死・・・・・・あまりにも大きな負担がつづき、私の時計も針をかけ足をしてしまったのだろう。このことが、進行の遅い甲状腺がんを眠りからさましたのではないか、そんな気がする。
 しかし私は、離婚はともかく賞金女王を目指した三年を後悔してはいない。プロゴルファーとしての二十六年間を振り返ってみても、あのときの吉川なよ子は120%の輝きを放っていた、と心から言えるからだ。ただ、体をいたわりながら120%輝く方法を知らなかったのは残念なことだったと思う。
 やっとそれに気づいた私は、ことし五十歳を迎えた。でも、決して遅くなんかない。六十歳、七十歳、八十歳になっても元気なオバ(ア)サンでいるために、今から体をいたわっておこう。

目次ページ