8 何事もとことん
 「はい、もしもし吉川です」「なんやお前、帰ってたんか」「たった今、着いたところなのよ。ごめんなさい、今日はちょっとしんどいから、ちょっ・・・・・・」
「しんどいじゃない、来い!あ、優勝カップ持ってな」 「カップなんてないわよ。あとで送ってくれるんだから」 「何かあるやろう。何でもいいから持ってこいよ。早くな!!」
 嵐のように言い残して電話は切れた。
 電話の主は、当時、西武ライオンズの投手でバリバリに活躍していた東尾修さん。ご存知のように、いまは監督としてチームを引っ張り、ことしも最後までリーグ優勝を争った。
 この日は、東尾さん、ワコール社長の塚本能交さんご夫妻たちと祇園ちかくで六時から食事をする約束をしていた。でも、私が京都の自宅に着いたのは八時すぎだった。おことわりの電話を入れようと思いながらボストンバッグを床におろしたところで電話が鳴ったのだ。
 勢いにおされ、リビングボードを開けた。「お祝いしてもらうには立派な優勝カップのほうがいいわね。あっ、これこれ!!」 私はもっとも立派で目についたカップを紙袋にいれ、通りへ出てタクシーをひろった。

 話はさかのぼるが、東尾さんとは、私が以前九年間にわたり所属していた用品メーカーの懇親ゴルフコンペで知り合った。スポーツ選手同士ということもあって気が合い、それ以来、遠征の前後に京都へ立ち寄るときによく声をかけてもらうようになった。一方、塚本さんとは、あるトーナメントのプロアマでご一緒したのをきっかけに家族ぐるみのおつき合いが始まった。お互いに京都に住んでいることを知り、さっそく地元で食事をしようという話になったのだ。
 それから間もなく、塚本さんがお誘いの電話をくれた。「じゃあ○日の○時に。あっ、その日は『トンビ』も来るからね」「はい、わかりました」 私は調子よく返事をしたものの、電話を切ってから考えてしまった。「トンビって?どこの国の人だろう?いや、聞き間違いかな_  いろいろ思いをめぐらして約束のお店に行くと、東尾さんが来ていた。 「あら東尾さん、ここでお会いするとは偶然ね」「お前こそ、何でここにいるんだよ?!」「私はワコールの塚本社長の・・・・・・」「おい、俺も塚本さんと約束してるんだぞ」 「あっそうか、トン・・・・・・とんでもないことに、皆知り合い立ったんだ」 というわけで年齢のちかい私たちはすっかり意気投合し、年末には共通の仲間をさそってコンペをすることになった。
 本当は今日は、その打ち合わせがてら食事をしようということになっていたんだっけ。タクシーに乗りこんでから、改めて本題を思い出した。

 八六年六月二十二日、日曜日。この日、私が約束の時間に遅れたのは、岐阜県の富士カントリー可児クラブで行われたダンロップレディスで優勝したから。つい数時間前まではプレーオフをしていたのだ。 ト阿玉さん、沢田さと子さん、そして私の三人で戦ったプレーオフは、いまも女子プロ史上「最長記録」として残っている。なんと10ホールまでもつれ、二時間四十分もかかってしまった苦い思い出のある試合だ。9ホールを二時間以内でまわるよう心がけている選手としてはあまり嬉しくない「記録」ではある。
 プレーオフでは、1ホール目は18番ホール、2ホール目は17番ホールで行い、それでも決着がつかなければ18番と17番を繰り返し使用することになっていた。しかし、3ホール目を終わってトさんが脱落したあとも私と沢田さんはお互いに一歩も引かなかった。そこで、選手やギャラリーの移動を少なくするために6ホール目からは18番のみを使用することになった。
 それでも、当時は今のように1ホールに何台ものカメラがセットされていなかったので、私たちはティーグラウンドでテレビクルーが到着するのを待ち、カメラの準備ができてからショットをするという流れで戦っていた。そのために時間がかかってしまったのである。
 テレビクルーが動いているそばでは、新聞や雑誌のカメラマンたちが殺気立っていた。「大至急、電送しないと間に合わないぞ!」 「デスクはぎりぎりまで撮れといってるんだ!!おい、早くしてくれよ」 しかし、不思議なことに私は、 「我慢すれば勝てる。ここまできたら何ホールでもやるわ」 という気持ちになっていた。
 カメラの準備を待つ「間」によってプレーのリズムと集中力が切れないように、軽い素振りやスイングチェックをしているうち、そわそわした気持ちが落ち着いてきた。周りの騒動もギャラリーもきにならなくなり、自分のボール、落としどころ、ラインだけがはっきりと見えた。無理なプレーは一切せず、5ホール目以外はすべてパーをつづけた。その結果10ホール目で沢田さんに競り勝ったのだ。
 優勝インタビューではおくびにも出さなかったけれど、実はこのときの私は離婚騒動の真っ最中で、精神的につらいときでも決してあきらめずにプレーに集中すればこういう勝ち方もできるんだ、という実感は大きな自信になった。
 一年一ヵ月ぶりの優勝は、賞金女王を本格的に目指すきっかけになった。

 タクシーが祇園に着いた。お店に入るとみんな上機嫌だったうえ、今しがたトーナメントに優勝した私が加わってさらに盛り上がった。「優勝者、吉川なよ子プロの登場です!!」
「本当によかったね。お疲れさま、まあ飲もうよ」 「ありがとうございます。でも、時間外労働をしてきたからお腹がすいちゃって。悪いけど、おうどんいただいてからでいい?」
「おうどん?はよう食えよ!その間に準備するか。さっき言ったあれ、持ってきた?」私は紙袋から優勝カップをとりだして東尾さんに渡した。めずらしい工芸品のカップを見て、みんなが声をあげた。
「九谷焼よ。お祝いをしていただけるっていうから、いちばん大きいのを持ってきたの」「いちばん大きいやつか。よしっ、いいそ」 東尾さんは、なんと優勝カップにワインを注ぎはじめた。どぼっどぼっ、どぼっ・・・・・・たちまちボトルが空になった。
「全然足りないよ。マスター、同じのをもう二本、いや三本もってきて!!」 とびきりおおきなカップには、しめて四本分のワインが吸いこまれた。 唖然としてそれを眺めていた私は、うどんを食べ終えると最初に特大カップを手渡された。
「ますは、なよちゃんから行かないとね。さあ!!」 みんながかけてくれるお祝いの言葉がうれしくて、のどを鳴らしてワインを飲んだ。「それにしても頑張ったね、みんな感動していたよ」
「お前、パッティングのときボールがカップの淵ぎりぎりに転がっていくと、こうやって腰をひねるやろ。あれを見てるとハラハラするよ」 東尾さんはすぐに私のまねをする。
 みんなはその格好を見て爆笑し、そのたびに特大カップへと手を伸ばす。実質的には、塚本さんの奥さんをのぞく三人で四本分のワインとブランデーを二〜三本あけてしまった。
 私はお酒には酔っても記憶をなくすようなことはまずないのに、この日ばかりはどうやって帰ったのやらまったく覚えていない。気がついたら自分の部屋で横になっていたのはいいが、天井がぐるぐる回って見え自分の体はベッドの中に沈んでいくような感じで、疲れもあったのか、まさに泥酔状態だった。

 東尾さんや塚本さんとは、ゴルフとお酒を通して本当によくおつき合いさせていただいた。
 あのころは二人とも、私が離婚問題で悩んでいるのを気にかけて賑やかな席に呼び出してくれたのだと思う。プライベートなことは、こちらから言うまで聞いたりしないのに、私の雰囲気でだいたいのことはわかってしまう。密かに落ち込んでいる時にかけてくれる言葉の内容や励ましてくれるタイミングのよさにはいつも驚かされた。
 ある時、塚本さんにこう言われたことがある。「なよちゃんは、面白くないな。そんなガードしなくたって大丈夫だよ。そんなに気を張って飲んでいたら、息抜きにならないぞ。もっとストレートに楽しんだらいいのに」離婚話を悟られないように妻としての立場を無理して強調しているのを、いっぺんに見抜かれてしまったのだ。塚本さんたちと本当に親しくなれたのは、それがあったからのように思う。
 私には、ゴルでも私生活でも、常に外に対してバリアを張っている部分がある。それが結果的には「強い人」「しっかりしている人」に見えるらしい。
 ところが実は、まったく反対なのだ。本当は弱いのだけれど、ちょっとでもそれを見せてしまうと、歯止めがきかずにダラダラッと一気に弱さが出てしまうのではないか。そうなったらどうしよう。私にはそこでブレーキをかけられる自信がないから、初めからガードしてしまうのだ。
 こういうタイプの性格は、やはり塚本さんの言うように、気が休まる時がなくストレスをためこんでしまうのかもしれない。とにかく、人に対して自分を表現することが下手なのだと思う。だから、この不満をぶつける方法としてお酒を飲み、発散しきれずゴルフに没頭したのかな?とも思う。

 それぞれの分野で活躍する人は皆、本当によく働き、遊ぶときもまた徹底して遊ぶ。忙しい人ほどストレスやプレッシャーも多いだろうから、息抜きの時間もたっぷり必要なのだろうか。疲れているとか、時間がないとか、そういう愚痴は聞いたことがない。でも、それによって、よりいい仕事ができるような気がする。私は、そういうメリハリのつけ方に影響を受けた。
 別居するまでは、お酒といってもビールに口をつける程度だった私も、このころから「ハンパじゃない」くらい飲めるようになった。きっかけは、離婚問題からくるストレスや試合のプレッシャーから逃れたかったからだったと思う。はじめは味もわからずに飲んでいたのだが、しだいにお酒のおいしさがわかってきた。お酒の楽しみ方、ルール、人づき合いのコツ――さまざまなことを、二人の言動からさりげなく教えてもらったことが大きかった。
 東尾さんたちとの間には、約束の時間に遅刻すると「一分につき一杯」という罰則がある。ある日、私は三十分の大遅刻をして、ブランデーのロックをきっちり三十杯飲んだことがあった。もちろん片手にしたお水とブランデーとを交互に飲んだけれど、ボトルはちょうど一本あいてしまい、私にはお酒を飲める要素があったんだと、我ながらびっくりした。

 試合中はほとんど飲まないが、それでも親友の鈴木美重子プロが一緒のときは別だ。「なよちゃん、食事の前にワインでも飲もうか」 「飲もう!!でも美重ちゃん、グラスじゃちょっともの足りないわね」「二人だからフルボトル頼んで、多かったら残せばいいか」  などと言って始まるのだが、残すどころかもう一本、というのはよくあるケース。一度など、五〜六人のパーティー用デカンタに入ったワインを全部飲んでしまったこともある。
 離婚をしてからは飲み仲間がふえ、約束をしていなくても時どき一人で友人の集まるお店へお酒を飲みに出かけるようになった。

 試合が終わった日は、自宅へ帰ると出かけるのが面倒になってしまうので、大荷物を持ったまま京都駅からタクシーで先斗町へ直行する。なじみのお店の前で私はタクシーを降り、運転手さんにマンションのカギをわたして部屋の中に荷物を運び入れてもらい、最後に鍵をお店へ届けてもらっていたほどだ。そのうちに心配したお店のマスターが私と入れ替えにタクシーに乗り込み、荷物を置いてきてくれるようになった。
 改めて振り返ると、離婚を決意してからの何年間かは、お酒を飲むためにもものすごいエネルギーを発揮したものだ。
 といってゴルフがおろそかになったわけではなく、この時期はむしろゴルフの方でも賞金女王の目標へ向かって加速していった頃で、仕事は全力でやる、お酒もしっかり飲む。いや、お酒に限らず興味のあることなら何事もとことんやらなければ気がすまないところがあったのだと思う。
 病気になったとき私なりに原因を探ってみたら、何番目かに、この性格的な要素にいきあった。だからこそゴルフでここまでの成功をおさめられたと思う半面、もう少し自分にやさしいところがあれば病気を避けることができたのかもしれないとも考えた。
 私の場合、お酒を飲みに行くというのは、たくさんの友人がいる場所へ遊びに行く、おしゃべりをしに行く、という意味合いが強かった。お酒の場では、昼間の仕事からは得られない教訓や友人ができる。あとになってみると、私の苦手な人づきあいの部分やプロとしての姿勢にプラスになることが多かった。

 ある運送会社の社長さんをしている友人と飲んだときに、こんな話が飛びだしたこともある。 「僕の仕事は大昔だったら飛脚。そのせいか走ることが好きでね・・・・・・」「私もプロになる前はキャディーをしていたから、三つも四つもバッグを担いで走り回っていました。いまは毎日、一〜二キロ走っていますよ」「さすがプロやね。僕は、マラソン選手として頑張っている社員をサポートするためにホノルルマラソンに出てるよ。今年も行くけど、なよちゃんも一緒にどう?」「フルマラソン?よし、プロ生活二十周年の記念に私も頑張ってみようかな」「決まりや!!さっそくエントリー用紙を送るわ」はずみで四十二・一九五キロを走ることになってしまったのだ。このときは賞金女王をとったあとで、体調はもっともすぐれず、成績もパッとせず、いつもイライラしたり悩んだりしていた時期。その理由が甲状腺がんとは知らず、なんとか立ち直るきっかけをつかみたい、と心から思っていたのだ。
 ついでながら、一度きりのフルマラソン挑戦の顛末をお話させていただくと――。
 私はシーズン中もほぼ毎日ジョギングをしている。ある日、二キロを軽く流してタイムを計ってみると十二分だった。これを元に考えると四十二・一九五キロを走るには、最短で四時間十二分、一時間に五キロを歩くつもりだと最長で九時間二十四分という、かなりアバウトな数字が出る。最短は無理にしても制限時間内での完走は何とかできると思った。
 ある日、車で京都から大阪へ行くときに走行距離を測ってみると、四十キロちょっとであることがわかった。そこで帰りはできるかぎり速度を落とし、ゆっくりと車を走らせて帰ってきた。
 それからは大阪へ行くたびに車の速度を落とし、二キロずつの距離感を体に植えつけた。二キロを二十本走ると思えば具体的なイメージがわく。そのうちの十本を走って十本を歩けば、七時間でゴールできるのではないか、というのが私の目算だった。
 九二年十二月十三日、私はホノルルマラソンのスタート地点に立っていた。
 スタートラインは速い順に前から後ろへと設定されていて、どこに立つかは自己申告制になっている。もちろん私は後ろのほう、七時間のラインに決めた。
 私を誘った運送会社の社長さんが励ましに来てくれた。実は社長さんは、前日になって、 「今回はちょっと、やめとくわ」と言って、スタートをとりやめてしまったのだ。私は足を痛めないようにテーピングの仕方を教わったり、特別なシューズを用意したりしていたので、不安はなかった。
 いよいよスタートの合図が鳴った。 無理はしない、目標タイムを決めない。この二点だけを心がけて気楽に走ってみよう。私の頭の中にはそれ以外はなにもなかった。ペースが速くなってくれば少し落とし、苦しくなったら歩く。自分の好きなように進んでいるうちにゴールが見えた。 「長かったけど、完走できたね。なよ子、お疲れさま」  自分で自分に声をかけ、ちょっぴり感動を味わった。

 タイムは六時間五十七秒、あと一分縮めれば五時間台というところだった。順位は出場者二万三千五百十五人中一万五千二百七十五位。女性出場者7千六百三十七人中三千五百六十六位、四十歳から四十四歳の女性五百八十五人中三百五十三位だった。私は、はじめての挑戦にしては健闘したほうだわ、と胸を張った。
 このマラソンは気楽にトライしただけに、何かを得たとかつかんだとか言えるものではない。ただ、走ることの楽しさに少しだけ触れることができたような気はする。がんの手術後にリハビリができるようになった時、「体を動かすって楽しい!!」と感じた、あの気持ちに共通するものがあったと思う。マラソンもリハビリも、心のもち方ひとつで結果が左右されるものなのだろう。
 ゴールをするとすぐにホテルへ帰り、バスタブに張った氷水に足を浸した。足の感覚がなくなったら熱いシャワーを当て、足にじわじわと感覚が戻ってきたらまた氷水につける。これを四〜五回くり返すと足がすーっと軽くなる感じがして楽になった。しばらく重さを引きずっていた私の心も、とことん走ったことでさっぱりした。

 そのおかげで私は、夜にはすっかり元気を取り戻した。街ですれ違う人の何人かに一人は階段の手すりにつかまって上り下りしたり、腰に手を当ててへんな声を出したりしてまるでゾンビのようになっていたが、私は翌日ハワイをたち、東京に着いた日からリハビリを兼ねたジョギングを始めた。ゴルフは帰国三日目に再開したけれど、痛みも疲れも不安もなかった。
 それにしても、この経験は甲状腺がんを告知される二年前のことだった。もっと前から自覚症状がつづいていたから、すでにがんはあったのではないだろうか。そんなときによくもフルマラソンを完走することができたものだ、と我ながら感心する。
 同時に、このような体への負担はやはり私の体内にある時計の針を速め、結果的にはがんを短時間で大きくしてしまったのではないだろうか。

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