9 父の事故死
 賞金女王をねらっていた頃から、私は「ゴルフ界のおしん」と呼ばれるようになった。
 NHKの連続ドラマの主人公にちなんでつけられた異名なのだが、ドラマが終わって十何年たった今でも、私のことが新聞や雑誌の記事になるときは、だいたい「おしんゴルフ〜」という見出しがついている。賞金女王になったときは「おしんプロ真骨頂」、手術後のあと優勝したときは「おしん流。鮮やかな復活」「一打一打おしん並み粘り」、九七年に生涯獲得賞金が6億円を突破したときは「二十五年のおしんゴルフが結実」など、改めてスクラップブックをめくってみると、よくもここまで活用できたものだな、と感心するばかりだ

 たしかに三十台のころの私のプレースタイルは、粘り強さを前面に出していた。いままでの優勝を振り返っても、大差をつけて勝てたのは一試合だけ。そのほかの28勝はつねに粘り、我慢し、接戦を切りぬけて手にした勝利だった。 「とりあえず、ここは踏ん張らなあかん。辛抱せないかんな」
 毎ホール、毎ホール、自分にそう言い聞かせてプレーしていたものだ。その気迫は表情にもあらわれるのか、新聞や雑誌に載った私の写真はいつも歯を食いしばり、ふだんとは別人のような怖い顔でボールを叩いていた。
 本人としてはあまり嬉しくないあだ名なのだが、忍んで忍んで、我慢のゴルフをしているイメージが「おしん」と重なったのだろう。

 こうした粘り強さは、いくつもの逆境を乗り越えることで身についたような気がする。離婚、義妹の死、甲状腺がん・・・・・・しかし、プロになってある程度の活躍ができるようになった頃には、なにかを乗り越えるのに必要な土台は、すでにでき上がっていた。もっと根本のところでは、
「私には、恵まれた環境も才能も体格も、なにもないんだ」という意識がつねにあった。それが私を突き動かしたといったら大げさかもしれないけれど、少なくともそれをバネにしたからこそ人生が好転し、ゴルフの世界でここまでやってこれたのだろう。がんを克服できなのもその延長にある、と思っている。

 私の根本にあるもの、それは生い立ちだ。私の場合、生まれもったものではなく、子どものころ運命の糸にあやつられた経験がその後の性格形成に大いに関係し、「土台」をつくったといっていいい。
 一九四九年二月十八日、私は北海道札幌市近郊の定山渓で生まれた。当時の地名は札幌郡豊平町字定山渓といい、札幌の町から三十〜四十分ほど車に揺られた山あいにたたずむ小さな温泉地だ。私の生まれ育った家は温泉地から少し離れたところにある。錦橋とよばれる集落にあった。
 定山渓は雪の多い地区で、子どものころの思い出といったら雪にまつわる遊びがいっぱい。雪かき、そり、スキー、ジャンプ・・・・・・窓のガラスには雪がへばりつき、じっと見つめるとかわいらしい形をした雪の結晶が宝石のようにキラキラ輝くようすもよく覚えている。
 夏は夏で毎日のように父の働いているダムへ行き、泳いだり、ボートに乗ったり、魚つりをしたりして、日が暮れるまで遊んだ。私は四人兄弟の三番目。両親、姉、兄、弟と暮らす、おかっぱ頭の活発な女の子だった。
 自然のふところで心ゆくまで遊んだあの日々は、何ものにも代えがたい幸せな記憶だ。つけ加えれば、自然のなかで毎日たのしんでいるうちに、いつの間にか体力や足腰が鍛えられたのはありがたいことだった。当時は考えもしなかったが、プロゴルファーになってから、また甲状腺がんで手術をしてから、この頃もらった自然からの贈り物には改めて感謝している。

 父は北海道電力につとめ、のちに無人になってしまった錦橋ダムの発電所に歩いて通っていた。発電所の仕事は変則的にあり、父は昼間、家にいることも多かった。そういうときは食堂ののれんを表に出し、お客さんがくれば厨房に立つという気ままなラーメン屋のようなことをしていた。近くの中学校の先生、向かいにある木工所の作業員、家のまえを通って豊羽鉱山へ上がっていくトラックの運転手さんなどが、時々、ふらりと入ってきた。
 お客さんがこない日は、近所の子供たちを集め、ジャンプ台や竹スキーやスケートリンクをつくって遊んでくれた。私のお気に入りはスケートリンク。父の言うとおりに皆で雪を踏みかためて水をまくと、あくる朝にはリンクに変身している。それはまるで、父が魔法をかけたかのように思えた。その上をそりやゴム長で滑る面白さはバツグンだった。
 器用な父はなんでも作ってくれたが、最大の「作品」はなんと言っても家だった。いま風にいうなら大きめの二LDKプラス納戸の平屋といったところだろうか。三角屋根の家のなかには、真ん中に大きなストーブの置いてある居間、両親の部屋、子供たちの部屋、二メートルくらいの深いむろのある台所、トイレ、そして湯舟に電熱器を入れただけでビリビリくるお風呂があった。庭にはとてつもなく大きな石とへびが出てくる草むらもあって、昭和三十年前後のごくふつうの暮らしをしていたと思う。私にとっては、家族みんなが一緒に暮らせたあの時期が、人生のなかで最もしあわせだったのかもしれない。
 その父は四十二歳のとき、勤務中に起きた事故で亡くなった。水門を開け閉めする機械を点検しているとき巨大なモーターに巻き込まれてしまったのだ。ちょっとした瞬間に服がひっかかり、停止ボタンを押すこともできなかったようだ。あとで聞いた話では、モーターに噛まれた左半身はほとんど原形をとどめないほどに引き裂かれ、左手の指は五本とも飛ばされていたという。

 私たちは、父がそんなひどい事故にあったことは知らなかった。透き通るようにきれいな顔をして布団に入っていたから、眠っているとしか思えなかった。
 父を亡くした悲しみがどんなものだったか、まだ小学三年生だった私はほとんど覚えていない。ただ、誰に言われたわけでもないのに、
「これからは、お母さんに心配をかけちゃいけないんだ。お母さんの言うことをちゃんと聞いて、自分でできることは自分一人でしよう」
 と、子どもなりに覚悟したのは覚えている。
 そう思うようになってから、私はいつも自分のことは自分でするようになった。といって何ができたわけではないのだけれど、身の回りをととのえたり淋しいとかつらいとか悲しいと言わないようにしたり、とにかく「手のかからない子」になることが、母の負担を少しでも軽くすると思っていた。
 その考え方は自立心を大いに養ってくれる結果になった。十九歳のときにゴルフ場のキャディーになるために京都へ行くことも、二十一歳で結婚することも一人で決めた。それは、このころから何でも自分で考えて自分で行動する習性が身についていたためだと思っている。
 すっと後になり、何か新しいことを始めるときや悩みごとを解決するときも、大抵のことは自分で決めてから周りの人に報告する形で伝えることが多かった。たとえトラブルをかかえたとしても自分の中で解決し、ほかの人につらい気持ちを打ち明けたりはしなかった。
 改めて考えると、このような性格はプロゴルファーには向いていたと思う。ゴルフは何ごとも自分一人の判断でするものであり、ほかの人を頼ることはできない。それだけにミスをしても言い訳は通用せず、すべて自分のせいになる。物ごとをどれだけ自分の中で解決できるか、その力を問われるゲームだからだ。
 ただ、がんになってからは、
「何ごとも一人の力で思い通りにできると思ったら大間違い。世の中には、一人ではどうにもならないことがたくさんあるものなんだ。今までは一人でやろうとしすぎたために、周りの人を振りまわすことも多かった」
 と反省した。確かにプレーは自分ひとりでするものだけれど、その環境づくりを手伝い、私をいろいろな形で支えてくれる人がいる。だからこそ私はゴルフができるのだし、今こうして健康で生きていられる。父が亡くなった歳を軽くこえてからそれに気がついたのは、ちょっと遅かっ

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